「評価経済社会」に感じる違和感と価値観の変化

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ここのところ「評価経済社会」というキーワードを目にするようになった。このキーワードは人によって異なる解釈があるようなのだが、私が最初に違和感に感じたのはTech Waveの記事で「貨幣経済社会から評価経済社会へ」という一文とともに紹介されているのを読んだときだった。
この話の元になっているのは、岡田斗司夫氏が執筆した「評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている」という書籍なのだが、どうも「貨幣経済社会から評価経済社会へ」という主張には危険性さえ感じる。今日はそのことについて意見を述べたいと思う。
最初に説明しておくと、貨幣経済社会ではいままでお金を仲介してモノやサービスを交換していたのに変わり、評価経済社会では評価を元にモノやサービス、お金を交換する社会になるという考え方だ。

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「評価経済社会が一体どのような世界を実現するのだろうか・・・」。そう考えた時に私がまっさきに思い浮かべたのは「カルトな新興宗教やマルチ商法の世界」だった。
なぜなら、彼らは自分たちを実際よりも高く評価することにやっきになり、特定のコミュニティ内において世間離れした評価基準を作り上げてしまうからだ。
外部の人間からすると価値のない考え方や商品でも、信者となった人間にはとても価値のあるものに感じてしまい、団体の手となり足となり活動したり金銭を提供してしまうというものだ。つまり、「評価させたもの勝ち」の世界である。「評価経済社会」はこのような世界を助長させてしまう世界なのではないだろうか。
実際、岡田氏の「評価経済社会」は、1995年に「ぼくたちの洗脳社会」というタイトルで出版したものを改変した書籍であるという事実からも、これがずれた考え方ではないであろうことが推測される。


そう考えながらも、まずは書籍を読んでから意見を言うべきだと思い、早速岡田氏の本を手にとってみた。
「貨幣経済社会から評価経済社会へ」というのはTech Waveの湯川氏の拡大解釈なのかもしれないと思っていたが、本の帯には「“お金”の時代から“評価”の時代へ。例えばtwitterのフォロワーをお金で買うことはできません。」としっかりと記載されていた。
どうやら「お金」の時代が終わり、「評価」の時代が来るというのがこの本の主張であることは間違いないようだ。実際、本を開いてみると、第1章は「貨幣経済社会の終焉」というタイトルではじまっている。

貨幣経済社会が終焉する?

「貨幣経済社会が終焉する」というのもこれまた違和感を感じざるを得ない。
そもそも、貨幣が生まれたのは、等価交換をするうえでの物々交換の不便さを解消するための代替物として用いられるようになったことが背景にある。つまりは、評価が一致しにくい物々交換の不便さを貨幣が解消したということだ。
いまとなっては「貨幣の価値基準」を通せば世界的にモノやサービスの価値を客観的な尺度で確認することが可能になっている。1000円札は誰が見ても1000円の価値があるというとても便利な代替物だ。
一方で、評価は人によって全く異なってくるものであり、とてもあやふやなものである。「評価してくれる人に売ればいい」とはいうものの、それが困難だから「代替物としての貨幣」が誕生したわけだし、貨幣のもう一つの重要な役割である「価値貯蔵=価値を貯める」機能を評価が取って代われるかというと、とても疑問である。
「評価も蓄積される」というが、過去に評価されていた人が事実や誤解を元に一瞬で信頼を失い、評価を急落させてしまったりあきられて忘れられてしまうというのはよくある話である。芸能界なんかはそれが顕著に見られる。
この本を読んだところでも「貨幣経済社会から評価経済社会へ」という考え方を理解することはできなかったし、上記の考えを変えることもできなかった。この本の第1章と2章は過去の歴史やいま起こっていることなどが紹介されていて、興味深くかつ面白く読み進めることができたが、「評価経済社会」の具体的な話に突入する第3章以降は、あやふやな感じで納得しずらいものがあった。
やはり「評価経済社会」とは実に不安定な社会としか思えない。

評価経済社会はパラダイムシフトによって生まれる?

岡田氏は貨幣経済社会から評価経済社会へのシフトは「農業革命」「産業革命」に続くパラダイムシフトである「情報革命」によってもたらされるものと説明し、パラダイムシフトが起こる理由を堺屋太一の「やさしい情知の法則」を引用しながら説明している。そして、現在は「モノ不足・情報余り」の社会と定義している。

「やさしい情知の法則」=「どんな時代でも人間は、豊かなものをたくさん使うことは格好よく、不足しているものを大切にすることは美しい、と感じる。」
ある時代のパラダイム(社会通念)は、「その時代は何が豊富で、何が貴重な資源であるのか」を見れば明らかになる。
ということは、それまで豊富だったものが急に不足したり、貴重だったものが急激に豊富になったり、といった変化が起きる時、それに対応して価値観が変化する。その価値観の変化によって社会は変化する。
これが堺屋の結論でした。

そして、「モノ不足・情報余り」の世界が評価経済社会につながると説明している。

「情報余り社会とは、一つの事実に対する様々な解釈、様々な価値観や評価・世界観といった、イメージがあふれる社会」であること、すなわち「評価経済社会」である。

「やさしい情知の法則」はとても納得感があるのだが、現在を「モノ不足・情報余り」の社会とするのには違和感を感じる。
「モノ不足」に関しては、環境問題に重点が置かれているようだが、現在はどちらかというと「モノ溢れ・時間不足」の社会のように思える。この時点で根底にあるものに認識の不一致が生まれてしまった。
岡田氏が言う、現在は情報が溢れる社会ではなくて、情報への解釈が溢れる社会だという説明にも納得感があるが、それが評価経済社会という社会全体の価値観を変える要因となるかというと、根拠としては弱いように感じ、やはり納得することができなかった。

ただし、価値観の変化は起こっている

いろいろと批判的なことを述べてきたが、「お金」に対する価値観が変わってきているのは事実だ。
いままでは、個人は収入を増やし続け、企業は収益を増やし続けることが重要なことであたり前のことであるように思われていたフシがあるが、現在は「自分や企業が何をしたいのか。何を実現するのか。」が最も大切で、それを実現するために「必要なお金」を稼ぐべきという人が増えて来ている。

だから自分がやりたいことをやれるのであれば、安い給料でもいいし、極端なところではお金をもらえなくてもいいという考え方が多くなってきており、そのような活動は今後も増えていくことが予測される。物事の価値をすべて「お金」の尺度で決めるようなことは減っていくということだ。
さらに、経済成長が困難であり高齢化が進む日本において、一人一人の消費の重要度が増しているように思う。そして、人は自分の消費行動が世の中に与える影響を考えるようになる。

人々は自分の消費行動を通して、「こういう社会であって欲しい」だとか、「こんな人に幸せになって欲しい」という「態度表明」を行い、一人一人が考えて消費する社会になっていくように思う。
それはパラダイムシフトではなくて、社会のバランスを取るための調整行為に過ぎないと私は考えている。ただ、企業も個人もそのような価値観の変化と向き合わざるを得ない形にはなっていくだろう。
私自身は「評価経済社会」は大げさに感じてしまうが、みなさんはどうだろうか?

関連記事:これからの時代は「態度表明する社会へ」

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
ダイヤモンド社  著者:岡田 斗司夫  価格:1,575円  評価:★★★★★


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写真/Tracy O on Flickr

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Author
Web制作会社にデザイナー、ディレクターとして従事後、フリーを経て、現在は株式会社プレイドに所属。