グローバリゼーションが及ぼす私たちへの影響について考え、それに備えるのは大切なことである。この流れはまだ止まることはないし、今後も世界的なスケールでの変化を及ぼしていくだろう。
しかし、グローバリゼーションが行き着いた先にはどんな世界が待っているのだろうか。このテーマは私にとって重要なテーマと考えており、今後追い続けたいものである。今回はそのとっかかりとなるものである。
グローバリゼーションは私たちに多くの選択肢を与えてくれた。情報によってもたらされた恩恵も計り知れない。世の中はどんどん便利になっていき、いまでは世界中の情報にアクセスしたり、製品を使ったりすることが低コストで当たり前にできるようになった。
多くの人は自分の生活を豊かにし快適にする製品やサービスを選択し、お金を消費している。もちろん私自身も便利なサービスや利便性の高い商品を積極的に活用している。
海外のものか、日本のものかは選択する際の評価基準には含まれておらず、自分の消費行動によってさらなる便利なサービスや製品が生まれることを期待している。
しかし、多くの場合、自分自身の消費行動が「誰を幸せにし、誰を不幸にするのか」ということまで考えが及ぶことがないことも事実ではないだろうか。通常はあくまで自分のことしか考えないだろう。
そして、利便性が高まり、一人ひとりの生産性が高まっても、一向に人々にゆとりのある時間がもたらされないのはなぜだろうか。
それは、過酷な競争にさらされ続ける状況であることを意味し、結局自分自身も困難な状況にさらされ続けることを意味している。
「シャッター通り商店街」はグローバリゼーションの縮図のように思える。消費者は価格の安さや商品の豊富さという利便性を選び、その競争に負けた商店街のお店は閉店を余儀なくされた。
消費者の行動は理にかなっており、決してこれを否定できるものではないが、ローカル経済という観点の中で、地域住民が暮らしやすい街づくりを消費行動を通して考えることは不要だったのだろうか。
自分の消費行動が及ぼす影響を「他人ごと」から「自分たちごと」として考え、消費の選択を変えることで、周りの多くの人を豊かにするかもしれない。そう考えると、いまの消費行動が正解とは限らないように思えてくる。
グローバリゼーションは、成功者と敗者の差を世界的なレベルで広げるものである。グローバリゼーションが進めば進むほど、その差は広がっていく。
これが本当に人々に幸せを与えるのかどうか、「グローバリゼーション」と「ローカリゼーション」の両面から考えを深めていきたい。
皆さんはどのような考えをお持ちだろうか。
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