大学生がTechWaveに寄稿した記事「蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】 」が物議をかもしていたが、この件に関しては静観を決め込もうと思っていた。
しかし、今日公開された湯川さんの「ソーシャルはリアルに傾くのか、デジタルネイティブは未来を生きているのか【湯川】」というまとめ記事を読んで、ソーシャルメディアを考える上でいいきっかけなのかもしれないと思い、持論を述べてみたいと思う。
まず、はじめにはっきりさせておきたいのは、SNSのつながりが「リアル限定であるべきか」「バーチャルも含まれるものか」なんてことは個々人が決める事であって、総意になるものではないと考えられる点だ。
結局のところSNSで繋がる人を考える上では「今後関係を継続したいのが誰なのか」という点が重要になる。
なので一般論として定義できるものではなく「私なりの定義」しかできないものだと考えている。
というよりも、ソーシャルメディアの枠組みで考えた時にリアルかバーチャルかを基準にして考える事はとてももったいないことだと思う。
以下では私なりの「ソーシャルメディアの定義」を示したいと思う。
ソーシャルと名のつくものは人が焦点であるべき
ソーシャルメディアって何?という議論は度々起こるが、正解と言われるものはいまだに存在しない。
なぜなら、この手の議論は結局のところ何を基準にするかによって答えが変わってしまうものだからだ。
例えば「ユーザー中心の設計であればソーシャルメディア」「個人が発信できればソーシャルメディア」など、様々な定義がある。
私は基準を「情報」ではなく「人」に置くべきだと思う。
インターネットという概念で見た場合にデータが主役になるのに対し、ソーシャルメディアは人が主役になると私は考えている。主役というよりも「ネットワークする」という方が適切だろうか。
「誰々の発言」「誰々が書いた記事」「誰々が紹介するニュース」「誰々のブックマーク」などなど、データ(情報)に対してではなくて、人を軸に見た瞬間にそれは「ソーシャルメディア」と言えるのではないだろうか。
なので「情報」も「人」も軸に置けるサービス、例えばYouTubeなどはソーシャルメディアであるかないかで意見が分かれてしまうのではないだろうか。
Twitterはなぜ受け入れられたのか
私はTwitterはインターネット上の人を顕在化させ最大化させた、すばらしいサービスだと思っている。
というのは、Twitter上の発言には必ず人(アカウント)が紐づいていて、アカウントのない人はTwitter上では発言できない。このことが情報と人をしっかりと紐付け、人に焦点をあてたサービスとなった。興味深い発言をした人を「フォロー」することができるのだ。その仕組みが人と人とをどんどんつなげていく。
インターネットによって、多くの人が距離や時間の概念を超えて交流できるようになったが、インターネットを利用する人が増えるに従って、中心が人からデータに移っていったところがあったと思う。
そんな中でTwitterが再び人に焦点をあててくれた。
「Twitterはインターネットが登場した初期の感覚に似てる」という話が度々あるが、それは「人」に焦点があたったがゆえのことではないのだろうか。
というのはインターネットが登場した当時は「チャット」「掲示板」「メール」といった人と人とのコミュニケーションが主役だったからだ。
Twitterはインターネット上の「人」を引き出したという意味で、すばらしい「ソーシャルメディア」だと考えている。
ソーシャルメディアは人を出会わせる
ソーシャルメディアで嫌われるのは「人」を「モノ」として見てるような行為だ。
例えば「誰でもいいからフォロワーをひたすら増やす人」みたいなのが代表的ではないだろうか。
「人」に焦点があたらなくなったとたんに「ソーシャル」じゃない感じになる。それは実生活となんら変わらないことである。
ソーシャルメディアの魅力は人と人とを出会わせることであると思う。
それは「すでに出会った人との関係性を持続し発展させるために交流できる」という面もあれば「興味を持てる人に出会える」「世の中の面白いやつを知ることができる」という面もある。
そしてインターネットならではなのは、学校や会社での出会いの中では、なかなか出会えないような「興味関心が近い人」「面白い人」に出会えることだと思う。
というわけで、ソーシャルメディアを一言で表すと『インターネット上の数ある情報の中で「人」に焦点があたっているもの』ということになる。
私の持論としては、ソーシャルメディアの力を最大限に活かすのが良いと考えているが、それを求める人ばかりではないことも確かである。なので、ソーシャルメディアのどこに魅力を感じるかは人によって変わってしまうことも事実であるという点に触れてまとめとしたい。
おわりに蛇足
ところで、蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】 が反発を招いた理由は、私見による持論であるにも関わらず、周知の事実であるかのような書かれ方をしている点ではないかと思う。
メディアを議論の始点として見る人もいれば、終点として見る人もいるから。もし始点としてなら始点とされるような書き方が求められる思う。
内容云々の前にそこに皆さんが反応してるんだと個人的には思っている。
ただ、私見を述べるということは実に勇気が居ることだと思うので、水谷さんの勇気はすばらしいことを付け加えておきたい。
写真:Flickr